普通列車寄り道の旅

毎回のように日記が遅れていますが、
9月半ば頃に大阪の友達に会いにゆきました。
「窓際族」というらしい高校の仲間4人で、現地集合で集まりました。


梅田周辺は毎回通って歩きました。でもなかなか方向が分かりません。
私は、知らない土地に行ったら、観光地とかよりも、とにかく地理を覚えることに関心があるのですが、
今回もやはり旅行先は旅行先のままで、場所に慣れ切れなかったもやもやが、思い出をより思い出らしく色付けます。

実は雨男の私は、滞在期間中台風を引き連れて旅行していたのですが、
個性ある仲間とはホテルの部屋で話しているだけでも楽しかったです。
いちばん接近してた3日目は皆でカラオケに行き、ホテルで口ずさんでいた曲たちが溜まっていたのを吐き出しました。
カラオケは観光客よりも現地の人たちの割合が高いので、より大阪らしい場所だねと私だけ言いました。
でも、毎日靴が濡れるのが嫌でした。サンダルを持って行って正解でした。
リュックサックと普段の鞄だけで荷物が足りて、リュックの3分の1はサンダルだったのです。

大阪のもう一人の友人と会いました。皆で、何処に行こうか考えました。
友人の一人と私は、敬老の日前後を善く過ごせました。
友人が祖母に会いに行っている間にちょっと兵庫のほうにも行きました。

大阪では、エスカレーターは右側に乗ります。
あと、西日本で乗った電車は、新幹線みたいな二人掛けの向かい合った席の電車がほとんどでした。


私は全部で1週間くらい旅行していました。

私だけ鈍行の電車に乗って、大阪の前後も満喫しました。
大まかな路線図を持って行きました。
帰りは途中まで友人と一緒でした。

行きは前日の昼に、もう出発しちゃおうか、と思い立って出掛けました。
時間があったので、神奈川の祖父母の家をサプライズで訪問しました。
震災時にしばらく泊めてもらっていたときは、閑散とした周辺も散策したりしていて、思い出深いです。
夕飯を食べさせてもらったりして、暗くなってからまた電車に乗りました。

静岡はなかなか東西に長いです。
電車にいる人たちを人間観察していると、その人たちが降りるのが寂しくなりました。
終電近くなってくると電車の中は静かになります。
愛知県の豊橋のカラオケ店で一泊しました。

次の日の岐阜県の大垣が、いちばん寄り道したという感じがしました。

また帰りは、まず京都に寄るもとてもイライラしていたのでまた電車に乗りました。
米原で降り、「琵琶湖行っちゃう?」と言って友達と歩くことになりました。
周りは人がいなさすぎて、ずっとここに閉じ込められちゃうんじゃないか、という気がしてきました。
田んぼのまん中を歩きながら、携帯のカメラで遊んでいました。その疲れが、あとからどっと来ました。
友人といましたがほとんど無言でした。携帯を電池で充電しました。行きと帰りで電池をけっこう使いました。
スーパーの中の人のほとんどいないマクドナルドに寄ったが印象深かったです。

名古屋にも少し寄ってへとへとの状態でサイゼリヤで座って、
静岡で松屋に寄って、友人と別れました。
初のネットカフェで、のんびりPCをしたり寝たり携帯を充電したりしました。

朝が来て、熱海、横浜、原宿、秋葉原でちょっとずつ店を見たりしましたが、疲れていました。
そして昼過ぎに家に着きました。


次は、富士急の日記も書きます。

この記事へのコメント

  • Jump

    また窓際族で旅行しようね~

    しかし自分も兵庫行きたかったなぁ・・・
    2011年10月03日 19:36
  • また大阪に来ることがあったら
    声かけてね(^^)/
    2011年10月04日 02:49
  • 牛君

    思い出について色々考えています。長文ですので面倒くさい人は読み飛ばして下さい。

    ―思い出は持つだけでは十分ではない。
    プラットホーム。彼らと別れて帰りの電車を待つ。ふと我に返った瞬間「この四日間」が急に奥行と実体感を獲得した。なんなんだよ、今更―。電車の轟音が耳を劈く。
    これから再び、出来合いの、わかりきった日常が始まる。と思った瞬間、「あの四日間」と「この今」の間に、取り返しのつかない断絶が生まれてしまった。その事実に気づき、ただ唖然と立ち竦む。もう「あの四日間」は手の届かない所にある、立ち戻ることは許されない―ここにはない思い出だから。
    電車がどんどん小さくなっていく。そしてその時「次第に色褪せ忘却するのが思い出の宿命である」という重々しい観念が心中に擡げてきた。自分にとって、思い出はいつも暮色が醸されたセピア色をしている。

    2011年10月04日 11:07
  • 牛君

    (続き)出来事は常に<~(意味)として>解釈・経験され、同時にそのことは隠蔽されている。だから、出来事の経験はそれ自体が<~として>を旋回点とした、別な次元―意味―への変換そのものでもあるのに、その時、自分はそれが<意味(それは時には思い出である)として>経験されていることに気が付かない。出来事はそのまま出来事として経験されるのではない。それなのに自分は出来事をそのまま出来事として経験しているというような錯覚を抱く。それは<~(意味)として>経験されているはずなのだから、自分は真に出来事としてのありのままを経験しているわけではない。実在と意味の差異化運動がそこでは営まれている。こうしてここで語っている言葉も「出来事」と<~として>の「~」をその理念性によって架橋している。出来事を思い出として隠蔽されることなく経験しようと、どんなに足掻いても、その出来事を直に経験している間は、それは<思い出として>現れてくれない。
    2011年10月04日 11:08
  • 牛君

    (続き)思うに<~として>と現れてきた意味もまた<<~として>>経験され、それもまた<<<~として>>>経験されそれもまた・・・、と意味が無意識下で次々に織り変えられていくのだろう。その刹那性を持った出来事は、その<~として>の無限の差異導出運動のもと、事後的にしか思い出としての資格を獲得できない。おそらく、無限に営まれる<~として>運動が導出した差異―即ちそれは意味である。意味は差異の間に潜む―の蓄積の澱(おり)が、自分をしてその思い出の澱の重み・奥行-「この四日間」と「あの四日間」の断絶-を実感するに至らしめたのだろう。それは、二次元的な平面図形に線分一本を加えるだけで三次元的な立体としての意味が浮上するような運動と言えばよいのだろうか。
    2011年10月04日 11:08
  • 牛君

    (続き)こうして「あの四日間」は思い出として、自分の日常へと編みこまれていく。日常の中で起こる、ふとした非日常的な出来事の数々は、日常の隙間・罅に織り込まれ、そこに新たな日常という織物が生まれていく。思い出は日常に織り込まれ、日常の中に身を隠す。これが忘却ということかもしれない。しかし、思い出が多くなったら忘れることができなければならない。それが思い出自身に課された宿命なのだと自分は思う―思い出は持つだけでは十分ではないんだ。そして、再び思い出が蘇るまで静かに、辛抱強く待つしかない。詩人のリルケが言ったように。
    ≪思い出が形を失い僕たちの中で血となり肉となり、眼差しとなり、表情となり、名前を失い、僕たちと区別がなくなったときに、恵まれた瞬間に、一行の詩の最初の言葉が思い出の中に燦然と現れ浮かびあがるのである。≫
    新たな日常が始まる。陽光に照らされ、日常の織目に光った一筋の糸が、あの思い出なのかもしれない。

    2011年10月04日 11:09

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